19世紀ロシア詩における市民詩と純粋芸術詩の二潮流について

高3のころ読書案内に寄稿した原稿そのまま。
(今もそうだけど)文章が荒いし若いね。見方が表層的だ。言葉の力を十分引き出せていないし、思考の力も足りない。

それでも詩の紹介としておいておきます。

1. 導入

前回筆者が寄稿した際に述べたように、文学は現実を映し出している。文題となっている「社会問題」について触れながら、本稿でも文学世界を通じた現実世界への視線の在り方を見ていく。 

ひとまず卑近な話から始めたい。第2回駿台模試(英語)の問題文である。「政治研究で、政治的側面(市民目線・政治的)と科学的側面(学者目線・非政治的)のどちらを重視すべきか」について述べられた文章があった。このような争いは、文学の世界においても生じる。現実の社会問題を嘆き主観的に闘うのか、あるいは、世俗の厄介事を回避し高踏的に未来を描くのか、という問いである。本稿では、19世紀後半のロシア詩における、「市民詩」と「純粋芸術詩」の対立を簡潔に紹介する。すなわち、庶民目線に立って現実の問題を訴え、社会の変革をめざした市民詩陣営と、保守的な立場にあり、純粋に詩の美しさを求めた純粋芸術詩陣営の対立である。 この両者の主張の紹介を通して、文学の在り方について考える一助となれば幸いである。

本題に入る前に、「ロシア詩」というのは馴染みが薄い概念であろうから、少し説明を加える。
第一に現代の日本人の大半は、「ロシア」は理解し難いという印象を持っている[1]。たとえばフィクションの世界において「ロシアのスパイ」はダークサイドで策謀を巡らすのが常である。戦後日本において、「ロシア」に対する理解を前提に構築される文脈は、他国のそれに比べればかなり少ないものであろう。
第二に、現代日本の日常において「詩」もまた近寄りがたい雰囲気をたたえがちである。その主な原因は、自分の想像を広げるという「気恥ずかしさ」や、芸術価値を高めるための「論理の飛躍」にあろう。
しかしながら、今回取り上げる近代ロシア詩は、「不気味なロシア」「不可解な詩」というイメージから幾分か離れたものも多い。とくに、現代日本の口語自由詩とはかなり趣が異なり、むしろ「漢詩」に近い。思いを自由に連ねた短い散文詩のことではなく、押韻等の形式で縛られ、しばしば長編の物語を紡ぐ韻文詩が原則なのである。

 

2. 《市民詩》と《純粋芸術詩》

A)  時代情勢

先述のように、フィクションは当時の世相を反映したものであるから、今回扱う19世紀の時代情勢を通り一遍、確認しておく。
19世紀初頭のナポレオン戦争[2]後、ウィーン体制において反動保守を強化したロシアだが、1853~1856のクリミア戦争(VS英仏土)の敗北でその後進性を強く意識することとなる。皇帝アレクサンドル2世は農奴解放令(1861)をはじめとする大改革を行うが不十分に終わり、知識人階級の間では革命への機運が高まっていく。ナロードニキ運動などの社会的潮流のもと、1881年のアレクサンドル2世暗殺に至るまで、19世紀中後半のロシアは激動の時代を経ることになる。まさにこの革命期にあって、暗い時代に反発するように、文学や芸術にも活力が生まれたのである。

B)   ネクラーソフらの《市民詩》

①   ネクラーソフの詩

ここではニコライ・ネクラーソフ(Никола́й Некра́сов / Nikolay Nekrasov [3] )(1821~77)を農民目線で社会問題をみつめた詩人として取り上げる。ただそれだけでなく、彼は雑誌『同時代人』(Совреме́нник / Sovremennik)の編集者として活躍するなど、文壇の主導者・才能の発見者としての名声も高い。ドストエフスキーを有名にした人物の一人でもある。 

(ア)  『正面玄関での考えごと』Размышле́ния у пара́дного подъе́зда / Razmyshlénija u parádnogo pod"ézda(1858)の一節 

И несу́т э́ти лю́ди безве́стные / Неисхо́дное го́ре в сердца́х. <中略> Назови́ мне таку́ю оби́тель, / Я тако́го угла́ не вида́л, / Где бы се́ятель твой и храни́тель, / Где бы ру́сский мужи́к не стона́л? <中略>Выдь на Во́лгу: чей стон раздаётся / Над вели́кою ру́сской реко́й? / Э́тот стон у нас пе́сней зовётся — / То бурлаки́ иду́т бечево́й!.. / Во́лга! Во́лга!.. 

I nesút jéti ljúdi bezvéstnye / Neishódnoe góre v serdcáh. <中略> Nazoví mne takúju obítel', / Ja takógo uglá ne vidál, / Gde by séjatel' tvoj i hranítel', / Gde by rússkij muzhík ne stonal? <中略> Vyd' na Vólgu: chej ston razdajotsja / Nad velíkoju rússkoj rekój? / Jétot ston u nas pésnej zovjotsja — / To burlakí idút bechevój!.. / Vólga! Vólga!.. 

そしてこれらの無名の人々(=農民・労働者)が抱えるのは / 心の中の終わりなき悲しみである。<中略> そんな土地を私に教えてくれ、 /  私はそんな一隅を見たことがない、/ お前(ここでは貴族を指している)には種をまく者と守る者(=農民)がいる場所で、/ ロシアの農民が苦しんでいない場所を(教えてくれ)。(そんな場所はあるのか? いや、そんな場所はない)  <中略>  ヴォルガ川に来てみろ:誰のうめき声が響いてくるのか? / それは雄大なロシアの川に(響いている)。 / このうめき声は、われわれのところでは歌と呼ばれている― / そして船曳きたちが綱で(船を)引いている! / ヴォルガ!ヴォルガ! 

ヴォルガ川をさかのぼる船を牽引する過酷な労働があったのだ。この詩は、農民や労働者の生活の苦悩を生々しく書き切っている。形式的な同情にとどまらず、圧倒的なリアリティをもって読者に迫るのがネクラーソフの詩の特徴である。

(イ)   『農民の子たち』Крестья́нские де́ти / Krest'jánskie déti (1861)の一節

Чита́тель, как «ни́зкого ро́да люде́й», — / Я всё-таки до́лжен созна́ться откры́то, / Что ча́сто зави́дую им: / В их жи́зни так мно́го поэ́зии сли́то, / Как дай Бог бало́ванным де́ткам твои́м. / Счастли́вый наро́д! Ни нау́ки, ни не́ги / Не ве́дают в де́тстве они́.

Chitátel', kak «nízkogo róda ljudéj», — / Ja vsjo-taki dólzhen soznát'sja otkrýto, / Chto chásto zavíduju im: / V ih zhízni tak mnógo pojézii slíto, / Kak daj Bog bálovannym|balóvannym détkam tvoím. / Schastlívyj naród! Ni naúki, ni négi / Ne védajut v détstve oní.

読者よ、「低い身分の者たち」とはいっても― / 私はそれでも正直に告白せねばならない、/ しばしば私は彼ら(=農民)をうらやんでいるということを。 / 彼らの人生には、多くの詩が注がれている。/ お前の甘やかされた子供たちに(お前の代わりに)神がお与えになってほしいと願うほどの多さである。/ 幸せな人々! 科学も満足も、/ 幼き頃に彼らは知らないのだ。

 この詩のように、ネクラーソフは、貴族など体制側ではなく農民の生活にこそ目を向けるべきだ、という思想である。

 ②   その他の市民詩陣営の詩

(ア) 『進め!恐怖と疑念を捨てて』Вперёд! без стра́ха и сомне́нья / Vperjod! bez stráha i somnén'ja(1846)の一節

 ネクラーソフは農民の生活の描写を通して社会の変革を求めたが、もう少し直接的に革命思想を言葉にする詩人もいた。例えば以下の詩を書いたアレクセイ・プレシチェーエフ(Алексе́й Плеще́ев / Aleksey  Pleshcheyev)(1825~1893)[4]である。

 Жрецо́в греха́ и лжи мы бу́дем / Глаго́лом и́стины кара́ть, / И спя́щих мы от сна разбу́дим, / И поведём на би́тву рать! 

Zhrecov greha i lzhi my budem / Glagolom istiny karat', / I spjashhih my ot sna razbudim, /  I povedem na bitvu rat'! 

罪と嘘の聖職者たちを、我々は必ず / 真実の言葉で罰する。/ そして我々は眠っている者どもを夢から目覚めさせ、/ 戦いへと軍を導くのだ!

 彼にとって聖職者やロシア正教会は既得権益層で敵である。そしてこの「眠っている者」とは、農民のことであろう。

 (イ) 『橋の上で』На мосту́ / Na mostú の一節

農民出身のイヴァン・スーリコフ(Ива́н Су́риков / Iván Súrikov)(1841~80)も、はっきりとはしていないが、この潮流の詩人として挙げられることがある。

В раздумьи на мосту́ стоя́л / Бедня́к бездо́мный одино́ко, / Осе́нний ве́тер бушева́л / И во́лны вски́дывал высоко́. / Он ду́мал:<中略> Чего́ же я от жи́зни жду, — / Иль вновь моя́ вернётся си́ла? / Нет, не воро́тится она́, 

V razdum'i na mostú stojál / Bednják bezdómnyj odinóko, / Osénnij véter bushevál / I vólny vskídyval vysokó. / On dúmal:<中略> Chegó zhe ja ot zhízni zhdu, — / Il' vnov' mojá vernjotsja síla?  / Net, ne vorótitsja oná, 

物思いにふけって、彼は橋の上に立っていた。/ 貧しく孤独なホームレスの男だ。/ 秋風が吹きすさび / 波が高く上がっていた。/ 彼は思った。 <中略> 私は人生にいったい何を望もうか― / また、私の生気はふたたび回復するだろうか? / いや、戻りはしまい。

 ネクラーソフが迫力ある詩を書き、政治的な訴えを含んだ一方で、スーリコフは淡々と農民や貧しい者の生活を綴る。その切なさもまた、心に響くものがある。

 C)  フェートらの《芸術詩》

①     フェートの詩

アファナーシー・フェート(Афана́сий Фет / Afanasy Fet)(1820~1892)らは、ひたすら芸術としての詩の美しさを追求した。われわれ現代日本人が思い浮かべる「詩」に近いのはこちらの派閥かもしれない。

(ア)  『彼女』Она́ / Oná(1889)の一節

Её кудре́й руно́ злато́е / В тако́м свету́, како́й оди́н, / Изобража́я неземно́е, / Своди́л на зе́млю Перуджин. 

Ejo kudréj runó zlatóe / V takóm svetú, kakój odín, / Izobrazhája nezemnóe, / Svodíl na zémlju Perudzhin. 

彼女の巻き髪は金色の羊毛 / かの唯一無二の光の中に、/ 地上にないものを描きながら、/ ペルジーノが地上に現した(ものである)。

 ペルジーノはルネサンス期に活躍したイタリアの画家のことを指しているようだ。ルネサンスを登場させる点でも、懐古性・芸術性の意識がうかがえる。さらに、かなりもったいぶった言い回し(В тако́м свету́, како́й оди́н)がある。なお「свету́(светの第二前置格)」には「光」と「世界」の2つの意味がある。「地上」という単語に繋がる以上、「世界」の訳を選びたくなるが、やはり前置詞が「в」であるため「光」という訳がよいであろうか(「世界」なら前置詞は「на」の方が一般的だろう)。両義性を持たせたのかもしれない。また、この詩は技法的に、「ое」「дин」で、複数文字の交差脚韻を踏んでいるという美しさも備えている。[5]

 (イ)  『歌手に』Певи́це / Pevíce(1857)の一節

Вдалеке́ замира́ет твой го́лос, горя́, / Сло́вно за мо́рем но́чью заря́, — / И отку́да-то вдруг, я поня́ть не могу́, / Гря́нет зво́нкий прили́в же́мчугу. / Уноси́ ж моё се́рдце в звеня́щую даль, / Где кротка́, как улы́бка, печа́ль, / И всё вы́ше помчу́сь серебри́стым путём / Я, как ша́ткая тень за крыло́м. 

Vdaleké zamiráet tvoj gólos, górja|gorjá, / Slóvno za mórem nóch'ju zárja|zarjá, — / I otkúda-to vdrug, ja ponját' ne mogú, / Grjánet zvónkij prilív zhémchugu. / Unosí zh mojo sérdce v zvenjáshhuju dal', / Gde krotká, kak ulýbka, pechál', / I vsjo výshe pomchús' serebrístym putjom / Ja, kak shátkaja ten' za krylóm. 

遠くで君の声が燃えながら消えていく、/ まるで海の向こうの日暮れのように。/ そしてどこからか突然、私にはわからないが、/ 澄んだ波が真珠のために鳴り響く。/ そして響き渡る彼方へ私の心を運んでおくれ、/ 微笑みのような、やさしい悲しみのある場所へ。 / そして私はもっと高く、銀色の道を駆け上がる、/ 翼の後ろの揺らめく影のように。

 日本語に訳しても、(解釈はむずかしいが)美しい詩である。ともすれば世俗によごれてしまう激動の時代に、これほど純粋な詩を作り上げたフェートは、なるほど確かにネクラーソフと対等にやり合えた存在であろう。

 ②     その他の純粋芸術詩陣営の詩

先述の『彼女』にルネサンスの画家が出てきたように、この派閥は古典に立ち返ったことも特徴である。例えば、アポロン・マイコフ(Аполло́н Ма́йков / Apollon Maykov)(1821~1897)の詩の一節を挙げよう。

 サッフォー(Сафо́ / Safó)(1841)

 Звезда́ боже́ственной Кипри́ды! / Люблю́ я ра́нний твой восхо́д / В часы́, как ночь свое́й хлами́дой / Восто́к тума́нный обовьёт. / Твоя́ блестя́щая лампа́да / Тра́пезы на́ши золоти́т,

 Zvezdá bozhéstvennoj Kiprídy! / Ljubljú ja ránnij tvoj voshód / V chasý, kak noch' svoéj hlamídoj / Vostók tumánnyj obov'jot. / Tvojá blestjáshhaja lampáda / Trápezy náshi zolotít,

 神聖なるアフロディーテーの星よ! / 私はお前が早くのぼってくるのが好きだ。/ 数時間のうちに、夜は自らの衣で / 霧がかる東方を覆う。/ お前の輝く灯火は / 私たちの宴を金色に包む。

 タイトルにもある通りこの詩は古代ギリシャの詩人サッポー(サッフォー)の模倣、という体をとっている。古典の雰囲気を真似たのである。サッポーは『アフロディーテー讃歌』という詩をつくったようで、それがこの詩にも「アフロディーテーの星」(=金星)として反映されている。 

3.   文学の役割

この時代の詩人が、詩や文学のあるべき姿をどう主張したのか、引き続き、二つの派閥の対立に注目して紹介する。

A)  ネクラーソフ

哀歌(Эле́гия / Jelégija)(1874) 

Пуска́й нам говори́т изме́нчивая мо́да, / Что те́ма ста́рая «страда́ния наро́да» / И что поэ́зия забы́ть её должна́. / Не ве́рьте, ю́ноши! не старе́ет она́. <中略> Толпе́ напомина́ть, что бе́дствует наро́д, / В то вре́мя, как она́ лику́ет и поёт, / К наро́ду возбужда́ть внима́нье си́льных ми́ра — / Чему́ досто́йнее служи́ть могла́ бы ли́ра?..

 Puskáj nam govorít izménchivaja móda, / Chto téma stáraja «stradánija naróda» / I chto pojézija zabýt' ejo dolzhná. / Ne vér'te, júnoshi! ne staréet oná. <中略> Tolpé napominát', chto bédstvuet naród, / V to vrémja, kak oná likúet i pojot, / K naródu vozbuzhdát' vnimán'e síl'nyh míra — / Chemú dostójnee sluzhít' moglá by líra?..

 変わりやすい流行には私たちのことを言わせておけ。 / 「『人々の苦しみ』というテーマは古い」(と世間は言うだろう) /  そして「詩はそのテーマを忘れるべきだ」(と世間は言うだろう) / (その言葉を)信じてはいけない、若者よ! そのテーマは色褪せないのだ。<中略>人々(=農民)が困窮していることを、世間に伝えること、/ 大衆がよろこび歌ううちに、/ 人々(=農民)への世間の強い関心を喚起すること― / 竪琴(=詩)がこれより奉仕に値するものは何であろうか?(いや、ない。詩が最も役に立つのはここである)

 ここで詩は社会問題を提起するのにふさわしい道具として捉えられている。なお、「наро́д」という単語は「国民」「人々」「民族」などという様々な意味がある多義語だが、ここでは「農民」を指す言葉として使われていると推測される。ナロードニキ運動の「ナロード」の使われ方と同じであろう。[6]

 B)    フェート

フェートのほうも見てみよう。革命的民主主義者であるチェルヌイシェフスキー(Черныше́вский / Chernyshevskii)が著したユートピア小説『何をなすべきか』(Что де́лать / Chto delat)(1863)という本がある。革命思想の伝播の面でベストセラーとなり、のちにレーニンにも影響を与えることになるが、フェートは以下のように「文学としての価値を欠く」として批判している(以下の文章は批評であって詩ではない)。

 Ску́дность изобрете́ния, положи́тельное отсу́тствие тво́рчества, беспреста́нные повторе́ния, преднаме́ренное кривля́нье самого́ дурно́го тону́ и ко всему́ э́тому беспо́мощная коря́вость языка́ превраща́ют чте́ние рома́на в тру́дную, почти́ невыноси́мую рабо́ту. <中略> Су́щность не в рома́не, не в тво́рчестве, а в и́стине, в пропага́нде.

斬新さに乏しく、創造性ははっきりと欠け、繰り返しは延々と続き、最悪の筆致でわざとふざけている。そしてこれらすべてに加えて、言葉遣いは絶望的にぎこちないため、この小説を読むことは困難でほとんど耐えられない行為である。<中略> (この本の)本質は小説や創造性にあるのではなく、真理とプロパガンダ(を説くこと)にある。

 かなり言葉遣いが荒いが、フェートからすれば、過激な思想で文学の創造的価値を貶めることは決して許されなかったのであろう。

C)     アレクセイ・トルストイ

フェートと同じく、純粋芸術詩派と目されるА.К.トルストイ(Алексе́й Толсто́й / Aleksey Tolstoy)(1817~1875) [7]は、詩人の在り方についてこう述べている。

 無駄に、芸術家よ、お前は考える。Тще́тно, худо́жник, ты мнишь / Tshhétno, hudózhnik, ty mnish' (1856) 

Мно́го в простра́нстве неви́димых форм и неслы́шимых зву́ков, / Мно́го чуде́сных в нём есть сочета́ний и сло́ва и све́та, <中略> O, окружи́ себя́ мра́ком, поэ́т, окружися молча́ньем, <中略> Вы́йдут из мра́ка – всё я́рче цвета́, осяза́тельней фо́рмы, / Стро́йные слов сочета́ния в я́сном сплету́тся значе́нье – / Ты ж в э́тот миг и внима́й, и гляди́, притаи́вши дыха́нье, / И, созида́я пото́м, мимолётное по́мни виде́нье!

 Mnógo v prostránstve nevídimyh form i neslýshimyh zvúkov, / Mnógo chudésnyh v njom est' sochetánij i slóva i svéta, / No peredást ih lish' tot, kto uméet i vídet' i slýshat', <中略>O, okruzhí sebjá mrákom, pojét, okruzhisja molchán'em,<中略> Výjdut iz mráka – vsjo járche cvetá, osjazátel'nej fórmy, / Strójnye slov sochetánija v jásnom spletútsja znachén'e – / Ty zh v jétot mig i vnimáj, i gljadí, pritaívshi dyhán'e, / I, sozidája potóm, mimoljotnoe pómni vidén'e!

 この世には、見えない形や聞こえない音が数多あり、/ そこには、言葉と世界のすばらしい組み合わせが数多ある。<中略> おお詩人よ、自らを闇で包め、静寂に囲まれよ。<中略> 暗闇の中から現れるのだ―いっそう鮮やかな色彩や、よりはっきりとした形が。/ 整った清らかな言葉の組み合わせが、明確な意味を紡ぎ出す。/ 君もこの瞬間、耳を傾け、見つめよ、息をひそめながら。/ そしてその後創作しながら、そのかすかな幻影を思い出せ!

 ここで述べられていることは、われわれ現代日本人の感性から見た「芸術家」の在り方に近く、抽象的に感じられる。だが、「自分を暗闇で包め(окружи́ себя́ мра́ком)」というフレーズは、現実に盲目たることを促す。「目に見えない形や聞こえない音」をつかむためには、現実から離れねばならないと説いているのである。純粋芸術詩の立場が現れた詩といえるであろう。

 

4.   総括

以上のように、激動の19世紀後半、ロシア詩には2つの潮流があった。大改革のなか苦しむ農民の実情を訴える手段として詩を用いたネクラーソフらと、詩の芸術的価値を追求したフェートらである。この対立を広くみれば、自らが目指す高みに至る過程において、社会課題にどう関わるかという問いであり、また、フィクションを現実に向き合う武器とするか、あるいはフィクションを現実からの逃避先にするか、という問題でもある。

社会問題という観点で一見すれば、現実の不正を糾し、貧しき人々に寄り添おうとしたネクラーソフらは「倫理的」であり、一方、現代の問題から目を背け、思弁的に麗句を弄したフェートらは「非倫理的」と簡単に分類できる。されど、貴族など体制側の人間を批判したネクラーソフ自身も、貴族のような振舞いをすることがあり、同時代の作家からその二面性を指弾されたことがある。確かにネクラーソフは苦労の多い人生ではあったが、農民と完全に同じ立場ではない。「他人の苦しみを代弁する」行為は、場合によっては独善的なものに陥らざるを得ない。無力感に苛まれ、詩の美しさまで失われるという面から考えれば、フェートのように世俗を離れて詩の価値を高めることも、悪と断定することはできまい。

ネクラーソフとフェートのどちらの生き方が望ましいかということは一概に決めつけられないが、この難題にひとつ示唆を与えてくれる詩人として、フョードル・チュッチェフ(Фёдор Тю́тчев / Fyodor Tyutchev)(1803~1873)がいるだろう。彼もまたこの時代の詩人である。フェート派に近いとはいえ、完全にはフェート派とは言えない。自然や恋愛を扱った作品もある一方で、外交官という仕事だったため、政治や国家を描写する詩もある。その中でとくに有名なのは、このたった4行の詩『頭でロシアはわからない』であろう。 

Умо́м — Росси́ю не поня́ть, / Арши́ном о́бщим не изме́рить. / У ней осо́бенная стать — / В Росси́ю мо́жно то́лько ве́рить. 

Umóm — Rossíju ne ponját', / Arshínom óbshhim ne izmérit'. / U nej osóbennaja stat' — / V Rossíju mózhno tól'ko vérit'. 

頭でロシアはわからない / 普通の定規では測れない / 特別な個性を持っているのだ― / (我々は)ロシアを信じるしかできない

 「頭でロシアは理解できない」と切り捨て、「信じるしかない」とあきらめる。これを箴言として拡大解釈すれば、決してこの対象はロシアにとどまらない。自分にとって未知なものを無理に理解した気にならず、まず受け入れてしまう、という姿勢である。それは他のチュッチェフの詩や、自分を詩人と認めることがなかったチュッチェフ自身の態度に繋がるかもしれない。ネクラーソフらのように、暗い時代への怒りを叫ぶのもよかろう。フェートらのように、暗い時代を見放すのもよかろう。されど、チュッチェフのように、様々な立場を移りながら、どんな時代でも言葉を大切に謙虚に生きていく姿勢は、ひとつ参考になるものがあるだろう。 

彼らが活躍した19世紀後半のロシアと同様、この21世紀も激動の時代である。暗澹たる状況の中、「遊びをせんとや生まれけむ」などと悠長にうたえる余裕はない。変化の中、現実世界を生き延びるのが精いっぱいである。そんな人生には何か縋るものが必要である。だがその信じるものが現代の産物ならば、時代の変化に伴いすぐさま崩れてしまう。然れども、長いこと時代を生き延び、数多の人々に知恵や精神的な支柱を提供してきた物語こそ、共時的・通時的に普遍的な価値基準となる可能性を隠している。古昔の文学に触れることは、いまなお価値を失わない。

5.  注

[1] ロシアに対して親しみを感じるか、感じないかという調査では、実に95.3%が「親しみを感じない」と述べている(内閣府による令和5年9月世論調査)。
https://survey.gov-online.go.jp/r05/r05-gaiko/2.html#midashi6

[2] ロシアにおいて、この戦争を「祖国戦争」(оте́чественная война́ / otechestvennaja vojna)と呼ぶ。なお、独ソ戦は「大祖国戦争」と呼んでいる。

[3] キリル文字はローマ字の要領で読むと混乱が生じやすい。誤読を避けるため、本稿では各単語にアクセント(力点)を施すとともに、ラテンアルファベット転写も併記する。※転写後のjはヤ行である。

[4] 「Плеще́ев」は日本語では「プレシチェーエフ」と表記されることが多いが、現代ロシア語では「プリシーフ」という発音に近い。ラテン文字転写して「Pleshcheyev」となるから、「プレシチェーエフ」と読まれてしまっているのだろうが、現代ロシア語において「щ」は「シチ」ではなく「シ」に近い。なお、これは「ボルシチ(борщ)」や「フルシチョフ(Хрущёв)」においても当てはまる。それぞれ現代ロシア語では「ボールシ」「フルショーフ」が近い。

[5] 本稿とは直接関係しないため本文では言及を控えたが、ロシア詩の技法について少し触れる。

第一に、脚韻(行末の押韻)について。ロシア詩は原則4行で1セットだが、1行目&3行目、2行目&4行目のそれぞれで脚韻をそろえるものを「交差脚韻」とよぶ(本稿で扱った詩の大半がこれに該当する)。他にも、1行目&2行目、3行目&4行目で脚韻をそろえる「隣接脚韻」(本稿では『歌手に』が該当)などの脚韻形態がある。

第二に、近代ロシア詩は音節アクセント詩法に基づく。音節とアクセントの関係に応じて単語を配置しなければならないという縛りである。例えば「Умо́м — Росси́ю не поня́ть,」という一節なら、У / мо́м / Рос / си́ / ю / не / по / ня́ть という8音節にわけられる。各音節のアクセントの有無を確認すると、「У」にはなく、「мо́м」にはあり、「Рос」にはなく、「си́」にはあり、というように、「アクセント無し(弱)」と「アクセント有り(強)」が交互に現れる。このような形式を「弱強格」(ロシア語ではヤンブ/ ямб)という。他にも、「強→弱」が交互に現れる形式や、「弱→強→弱」が交互に現れる形式など、いくつかの種類がある。 

[6] ナロードニキ運動で掲げられた標語「ヴ・ナロード」はロシア語では「в народ」。ロシア語らしく読めば「ヴ・ナロート」である(単語末尾の有声音は無声化するため)。「в=in(~の中に)」という説明がされることがあるが、ここでは「to(~へ)」である。後ろの「народ」が前置格ではなく対格となっているためである。

[7] 『戦争と平和』などを著したレフ・トルストイ(Лев Толсто́й / Lev Tolstój)(1828~1910)とは別人である。

 <主な参考文献>
・木村彰一・北垣信行・池田健太郎(1966).『ロシアの文学 世界の文学史8』.明治書院.
・中村唯史・坂庭淳史・小椋彩(2022). 『世界の文学をひらく⑧ ロシア文学からの旅―交錯する人と言葉―』.ミネルヴァ書房.