1. 導入
前回筆者が寄稿した際に述べたように、文学は現実を映し出している。文題となっている「社会問題」について触れながら、本稿でも文学世界を通じた現実世界への視線の在り方を見ていく。
ひとまず卑近な話から始めたい。第2回駿台模試(英語)の問題文である。「政治研究で、政治的側面(市民目線・政治的)と科学的側面(学者目線・非政治的)のどちらを重視すべきか」について述べられた文章があった。このような争いは、文学の世界においても生じる。現実の社会問題を嘆き主観的に闘うのか、あるいは、世俗の厄介事を回避し高踏的に未来を描くのか、という問いである。本稿では、19世紀後半のロシア詩における、「市民詩」と「純粋芸術詩」の対立を簡潔に紹介する。すなわち、庶民目線に立って現実の問題を訴え、社会の変革をめざした市民詩陣営と、保守的な立場にあり、純粋に詩の美しさを求めた純粋芸術詩陣営の対立である。 この両者の主張の紹介を通して、文学の在り方について考える一助となれば幸いである。
本題に入る前に、「ロシア詩」というのは馴染みが薄い概念であろうから、少し説明を加える。
第一に現代の日本人の大半は、「ロシア」は理解し難いという印象を持っている[1]。たとえばフィクションの世界において「ロシアのスパイ」はダークサイドで策謀を巡らすのが常である。戦後日本において、「ロシア」に対する理解を前提に構築される文脈は、他国のそれに比べればかなり少ないものであろう。
第二に、現代日本の日常において「詩」もまた近寄りがたい雰囲気をたたえがちである。その主な原因は、自分の想像を広げるという「気恥ずかしさ」や、芸術価値を高めるための「論理の飛躍」にあろう。
しかしながら、今回取り上げる近代ロシア詩は、「不気味なロシア」「不可解な詩」というイメージから幾分か離れたものも多い。とくに、現代日本の口語自由詩とはかなり趣が異なり、むしろ「漢詩」に近い。思いを自由に連ねた短い散文詩のことではなく、押韻等の形式で縛られ、しばしば長編の物語を紡ぐ韻文詩が原則なのである。
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